日本海軍の保有していた重巡洋艦(一等巡洋艦,甲巡ともいう)のデータです. なお,重巡洋艦は山の名前を付けることが慣例でした. 巡洋艦は,ワシントン条約によって主砲の口径が制限され,15.5cm=6inch未満の口径を持つ艦を軽巡洋艦,それ以上の口径(後に口径20.3cm=8inchまでとされた)を持つ艦を重巡洋艦としました. そのためこれらを条約型巡洋艦といいます.
日本の重巡洋艦は魚雷発射菅をもつなど攻撃力に重点が置かれ,防御力はアメリカの巡洋艦と比べると劣っていました. 日本の重巡洋艦は,夜間に敵戦艦を護衛する巡洋艦を撃破し,水雷戦隊の突撃を助けることを主として設計されていました.
旧装甲巡洋艦で一等巡洋艦に類別されたものは海防艦 (旧装甲巡洋艦)を参照のこと.
出現当時世界を驚かせた画期的巡洋艦. 計画時にはワシントン条約前だったので正確には条約型巡洋艦ではない. 新造時は単装砲塔であったが後に連装砲塔に換装された.
1926年3月31日三菱長崎造船所で竣工→1942年10月12日サボ島沖夜戦で沈没
1926年7月30日神戸川崎造船所で竣工→1942年8月10日米潜の雷撃により沈没
古鷹型の改良型. 最初から連装砲塔を装備していた.
1927年9月20日三菱長崎造船所で竣工→1945年7月28日呉で空襲により沈没
1927年9月30日神戸川崎造船所で竣工→1942年11月14日第3次ソロモン海戦で沈没
平賀造船中将の名を世界に知らしめた傑作艦. 連装砲塔を5基も搭載するという重武装艦だが,防御に難点があった.
1929年7月31日横須賀工廠で竣工,終戦時シンガポールで行動不能状態で残存→1946年7月8日英海軍によりマラッカ海峡で海没処分
1928年11月26日呉工廠で竣工→1944年11月5日マニラ湾で米艦上機の雷撃により沈没
1929年8月20日神戸川崎造船所で竣工→1945年6月8日バンカ海峡で英潜の雷撃により沈没
1929年4月25日三菱長崎造船所で竣工→1945年5月16日マラッカ海峡で英機動部隊の攻撃により沈没
妙高型の改良型. 旗艦設備のための大きな艦橋を持っていたために安定性に問題があり,外国からはカバが泳いでいるようだといわれた. 大戦中に摩耶は3番砲塔を撤去し大幅に対空兵装を強化した.
1932年5月31日横須賀工廠で竣工,終戦時シンガポールで行動不能状態で残存→1946年10月29日マラッカ海峡で英海軍により海没処分
1932年3月30日呉工廠で竣工→1944年10月23日パラワン水道で米潜の雷撃により沈没
1932年6月30日神戸川崎造船所で竣工→1944年4月高角砲を増備→1944年10月23日パラワン水道で米潜の雷撃により沈没
1932年6月30日三菱長崎造船所で竣工→1944年10月25日サマール沖海戦で沈没
重巡並みの性能を持った軽巡洋艦として造られたが,後に主砲を換装し重巡洋艦になった. さらに最上は航空巡洋艦に改装された. 電気溶接を多用し軽く作ることを目指したが,日本の当時の溶接技術は高いものではなかったので,公試運転時に強度的に欠陥があることが判明し,鈴谷では建造方法を変更している.
最上にあった強度的な欠陥を直したもの
戦時急造計画で鈴谷型の改良型として計画された
1935年7月28日呉工廠で竣工→1940年4月主砲を換装完了→1943年4月航空巡洋艦に改装完了→1944年10月25日スリガオ海峡海戦で沈没
1935年8月29日三菱長崎造船所で竣工→1939年12月主砲を換装→1942年6月7日ミッドウェー海戦で沈没
1937年10月31日横須賀工廠で竣工→1939年9月主砲を換装→1944年10月25日サマール沖海戦で沈没
1937年10月31日神戸川崎造船所で竣工→1939年10月主砲を換装→1944年11月25日コロン湾で空襲により沈没
空母に改装中に敗戦,未完成
建造中止
軽巡として計画されたが条約切れのために重巡に変更された. 前部の甲板に主砲すべてを配置するという大胆な設計. 後部甲板は水上機を搭載するスペースがあったので偵察能力が高く,機動部隊の随伴艦として使われた. 類別上は二等巡洋艦のままだった.
1938年11月20日三菱長崎造船所で竣工→1945年7月28日呉で空襲により沈没
1939年5月20日三菱長崎造船所で竣工→1944年10月25日サマール沖海戦で沈没