日本海軍の保有していた軽巡洋艦(二等巡洋艦,乙巡ともいう)のデータです. なお,軽巡洋艦は川の名前を付けることが慣例でした.
日本の軽巡洋艦は駆逐艦を中心とした水雷戦隊の旗艦となることを想定し設計されていました. 水雷戦隊とは魚雷を中心とした攻撃を行う部隊です. 特に,戦艦の数において劣勢であった日本海軍は夜間魚雷攻撃によって敵戦艦を沈める戦術研究に熱心でした. 戦艦を守る艦艇を撃破し駆逐艦による魚雷攻撃を容易にするために軽巡洋艦が用いられるという構想でした. しかし,太平洋戦争では敵戦艦への魚雷攻撃の機会は飛行機やレーダーの発達などによりほとんどありませんでした.
中華民国より拿捕した八十島については海防艦 (護衛用小型艦艇)を参照のこと.
すでに旧式であったが太平洋戦争に参加した最も古い巡洋艦.
1919年11月20日横須賀工廠で竣工→1942年12月18日マダン港外で米潜の雷撃により沈没
1919年7月30日佐世保工廠で竣工→1944年3月13日八丈島沖で米潜の雷撃により沈没
天龍型の拡大型. 5500トン型と呼ばれた日本の主力軽巡洋艦. 開戦時に北上と大井は重雷装艦(61cm魚雷40門搭載)に改装された.
1920年8月31日佐世保工廠で竣工→1944年1月11日ペナン沖で英潜の雷撃により沈没
1921年1月29日三菱長崎造船所で竣工→1944年10月25日エンガノ岬沖海戦で沈没
1921年4月15日佐世保工廠で竣工→1941年9月重雷装艦に改装→1945年1月回天搭載艦に改装,終戦時呉で行動不能で残存,1946年7月解体開始
1921年10月3日神戸川崎造船所で竣工→1941年9月重雷装艦に改装→1944年7月19日マニラ湾沖で米潜の雷撃により沈没
1921年5月4日三菱長崎造船所で竣工→1944年11月14日マニラ湾で空襲により沈没
球磨型の改良型. 5500トン型の代表的な巡洋艦. 太平洋戦争中に五十鈴は防空巡洋艦に改装された.
1922年4月21日佐世保工廠で竣工→1944年8月7日九州西方で米潜の雷撃で沈没
1923年8月15日浦賀船渠で竣工→1944年9月防空巡洋艦に改装完了→1945年4月7日セレベス沖で米潜の雷撃で沈没
1922年9月15日三菱長崎造船所で竣工→1944年8月18日サマール島東方で米潜の雷撃で沈没
1923年3月20日佐世保工廠で竣工→1942年10月25日ソロモン諸島で空襲により損傷自沈処分
1922年3月20日神戸川崎造船所で竣工→1944年10月26日スル海で米艦上機の攻撃により沈没
1925年5月26日浦賀船渠で竣工→1944年10月26日スリガオ海峡開戦で沈没
長良型の改良型. それまでの5500トン型と機関が異なっていたので煙突が4本あるのが特徴だった.
1924年4月29日神戸川崎造船所で竣工→1943年11月2日ブーゲンビル島沖海戦で沈没
1925年7月31日神戸川崎造船所で竣工→1943年7月12日コロンバンガラ島沖海戦で沈没
1925年11月30日横浜船渠で竣工→1944年2月17日トラック大空襲で沈没
平賀中将の設計によって3000トンの船体に5500トン型に匹敵する武装を搭載した傑作艦. しかし,小型過ぎたために後の改装が困難になってしまった.
1923年7月31日佐世保工廠で竣工→1944年4月27日パラオ南西で米潜の雷撃により沈没
旧式化した5500トン型に代わる軽巡洋艦として設計されたが,水雷戦隊を率いての魚雷攻撃に参加するには戦局が悪化しすぎていた.
1942年10月31日佐世保工廠で竣工→1944年2月16日トラック島沖で米潜の雷撃で沈没
1943年6月30日横須賀工廠で竣工→1944年10月26日ミンドロ島沖で米艦上機の攻撃により沈没
1943年12月29日佐世保工廠で竣工→1945年4月7日坊の岬沖海戦で沈没
1944年11月30日佐世保工廠で竣工,終戦時残存,復員輸送に従事→1946年7月1日ビキニ環礁での原爆実験で沈没
潜水艦隊の旗艦となるため航空巡洋艦として計画されたが搭載機・紫雲の開発がうまくいかなかった. 結局,優秀な通信設備を持っていたので連合艦隊の旗艦となった. 主砲は,最上型を重巡とした際に余った 15.5cm 砲である.
1943年2月28日呉工廠で竣工→1945年7月28日呉で空襲により沈没
訓練用の巡洋艦として設計された. 戦争中は潜水艦隊の旗艦や船団護衛に使われた. 艦の名は神社から取られている.
1940年4月20日横浜船渠で竣工→1944年2月19日トラック空襲ののち沈没
1940年5月30日横浜船渠で竣工,終戦時残存,復員輸送に従事,1947年解体
1941年7月15日横浜船渠で竣工→1945年1月20日ベトナム沖で船団護衛中空襲で沈没
1941年8月23日横浜船渠で起工,1941年11月6日建造中止,解体